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採択奨学生の動き

第2期奨学生インタビュー第5回

世界中が敵って思った時もあったけど

日本財団夢の奨学金の2期生は、東海地区限定だった初年度のパイロット事業を経て、初めて全国公募で選ばれた学生たちです。中には、住まいが東海地区ではないため初年度に応募ができず、翌年まで待っていたというケースもあります。第2期生の通算第5回目となるインタビューの相手は、そんな女子学生です。栃木県のマロニエ医療福祉専門学校で看護を学ぶ彼女。夢の奨学金の魅力はお金だけではなかった、と語ってくれました。

 

1 後ろ姿s

 

女子学生。夢は看護師

 

11月初旬の日差しは、柔らかく講義室に差し込んでいた。緩やかにカールした髪を揺らしながら、彼女はまず、学校生活について語りだした。

 

「1月にすごい実習を控えているんです」。穏やかな表情だが、聞いてみると日々の暮らしぶりは「がり勉」そのものだ。

 

3年生の冬に予定されている国家試験の受験に向けて、学ぶことは山のようにある。朝は自転車で登校し、午前9時半から授業。午後5時に終わると、図書館が閉まる午後10時まで勉強する。それでも終わらない課題は自宅に持ち帰り、就寝は午前2時か3時だ。「午前8時までは寝られるので」と睡眠時間は不足していないと強調するが、遊ぶ時間などほとんど見つけられない毎日だ。

 

看護学科の学生にとって、避けては通れないのが実習だ。1年生から始まり、内容はステップアップする。1年生は、病院で患者さん1人を担当させてもらい、コミュニケーション方法を学ぶ。2年生では、2回のうち1回は老年期の患者さんへの対応に理解を深め、もう1回は病院で基礎のまとめを行う。

 

2 採点As

学校の課題。最高評価のAが並ぶ

 

実習での人との出会いは楽しい。ただ、学業の一環であることに変わりない。毎日、実習が終わった後には、疲れた体で頭をフル回転させ記録をつける。評価を受ける厳しい側面も当然ある。「1月の実習は、これに合格しないと3年生になれないんです」

 

「でも…」、と話はさらに続く。

 

「3年生になったら、ほとんど実習です。来年冬の国家試験が終わるまで、あと1年間は気が休まらない」

 

ささやかな気晴らしは、週末のバイトと、金曜日の夜に時折開催される友人たちとのたこ焼きパーティー。12月の戴帽式の後に友人たちと出かけるのも、ずっと楽しみにしているイベントという。

 

人生を救ってくれたあの人たちが、看護師だった

 

幼いころから成人するまで、病院のお世話になったことが度々あった。医療にかかわる人たちに多く接するなかで、彼らに掛けられた言葉が、知らず知らずのうちに、心にたまっていった。

 

「10代後半にグレて、不規則な生活をしていました。その影響で体調を崩し病院に運ばれたのですが、その時、ある医師に言われました。勉強も人生のためになるんだよ。数学とかも物事を整理するために必要だよ、とか。医師になれるような恵まれた家に生まれたあなたに何が分かる、とムッとしました。でも、心に残ったんです」

 

こうした言葉を繰り返し聞くうちに、中学生の頃、事情があって家に帰らない社会的入院で出会った看護師さんたちのことを思い出した。みんな優しかった。

 

「この10代後半で運ばれた時には、ある看護師さんが勤務時間が終わった後に私のベッドのそばに来て、ずっと話し相手になってくれました。過去は変えられないけど、乗り越える力をつけることはできるんだよ。そう教えてくれました」

 

医療職を、将来の職業として自然に意識し始めた。中でも看護師になろうと考えたのは、あの優しかった看護師さんたちの姿が忘れられなかったからだ。その看護師さんたちは今、憧れであり目標だ。

 

3  血圧計と聴診器s

“マイ”聴診器と、“マイ”血圧計。実習の必需品だ

 

 

女だから、の暴力。信じてくれない大人たち

 

社会的養護の子になったのは、小学2、3年の頃が「最初」だった。これ以降、家と施設の移動を繰り返した。

 

「最初」は、家庭内の暴力が原因で保護された。当時、両親ときょうだい3人の家庭で暮らしていた。父や、近くに住んでいた父方の祖父母が、母に暴力をふるうことが多く、面前で祖父が母を殴ることもあった。

 

「家族が暮らしていたのは田舎で、男性が女性を見下すような雰囲気でした。それで暴力を受けた母が、子どものうち女の子である私にうっぷんを晴らしたんです。お前なんて産まなきゃよかった、そう言われたこともありました」

 

ただ、すぐに児童養護施設から家に戻された。経済的には恵まれた家庭だったためじゃないか、と彼女は回想する。

 

「その後、母が家を出て、父と、わたしを含む子ども3人の4人家族になりました。そうしたら、女の子はいらない、なんでもお母さんに似ている、と言われて。今度は私が殴られる対象になりました。でも家の外の人には言えなかったんです」

 

中学1年の時、体調を壊して半年間入院した。暴力のある家には戻りたくないと言い張ったこともあり、子どもを保護する社会的入院になった。「病院にいれば暴力をふるう人はいない。優しい看護師さんもいる」。しかし、児童相談所(児相)の職員から、「帰りなさい」と説得されて結局、半年後に家に戻されることになった。

 

高校生になっても、暴力は続いた。ある先生が、彼女の体にあったあざを見つけ、児相に連絡し、保護されたことがあったが、これも2、3日で自宅に帰らされた。児相で、高校を続けたいなら、家に戻った方がよいと説得をされたからだ。

 

この児相の措置が、更に彼女を傷つけることになる。高校側が、虐待はなかったととらえ、「嘘をついた(虐待を自演した)」として彼女を強く叱責した。

 

「校長室で、もう嘘は言いません、という誓約書にサインを求められました。いくら嘘じゃないと言っても、信じてもらえず、部屋から出してもらえない。残念ですが最後には、サインしました」

 

高校は好きだった。家での暴力から逃れられ、楽しく友だちとも話ができる場所だったからだ。しかし、これを機に、家庭内での虐待がエスカレートした。「このままだったら、殴られ続けて殺されるんじゃないか」。家を出た。行き場もなく、たどり着いたのは東京だった。

 

4 手元s

国家試験合格に向け、勉強に明け暮れる日々だ

 

 

20歳になる前に死ぬ。これが私の夢だった

 

東京の児相に保護され、間もなく、父親が「本人の意思です」と偽って高校に退学届を出していたことを知った。学校に戻る道も絶たれ、結局、東京の自立援助ホームが新たな“家”になった。暴力から解放された暮らしではあったが、どうしても馴染むことはできず、都内でホームの“転居”を繰り返した。

 

「仲がいいのは夜の街で出会った仲間ばかりでした。門限を破ることも多く、都内のホーム関係者の間では問題児で知れ渡っていたと思います」

 

東京の児相で、虐待による心の傷があると認知され、病院通いを強要されたのもストレスだった。「3、4カ所行きました。数カ月前に予約して、いざ行ってみると、生い立ちをはじめから話させられるんです。それを繰り返すのは、辛かった」

 

20歳になる数日前に、自分を傷つけ病院に運ばれた。

 

「もう生きていたくないという気持ちをずっと持っていました。20歳になる前に死ぬ、という謎の目標を持っていたんです。20歳になった時は、死ねなかったことに対する絶望がすごかった」

 

この時、彼女を支えたのは、その病院で出会った医師や看護師だった。ずっと泣いていた彼女に、「いつか笑った顔で話しているのが見たいな」と語りかけてくれた。

 

やっぱり看護師になりたい

 

この入院をきっかけに、かつて出会った看護師のことも思い出し、この職業に就こうと決意した。しかし資金はない。独り暮らしの生活費に加えて、目標の学校の学費を貯めるため、昼夜問わず働く生活が始まった。

 

そんなある日、日ごろからお世話になっていた医師から、連絡を受ける。「いい奨学金があるよ」。夢の奨学金1期生募集の情報だった。内容を見ると、学費に加えて生活費まで出る。しかも給付型だ。そして、一番強く目に留まったのは、対象者の項目だった。

 

「社会的養護出身者向けの奨学金をいろいろ調べていましたが、ほとんどが、施設に今いる人を対象としていたり、施設長の承認が必要となっていたりしていました。つまり私は対象外だったんです。でも、夢の奨学金は違いました。これなら私も応募できる、と。金額よりもそれが大きかったです」

 

1期生は東海地区限定で諦めていたため、翌年の全国公募が始まると、胸が高鳴った。応募用紙にある生い立ちの欄は、悩んで筆が進まなかったが、バイト前の早朝のカフェで何とか書き上げ、8月末の締め切りぎりぎりに提出した。

 

「自分には無理かなという思いが強くて、書類選考の合格通知が来た時は奇跡だと思いました。でも、面接では落ちたと思いました。今でもよく覚えています。『将来、どんな日本社会にしたいですか』という質問をされたんです。うまく答えられなくて、本当にがっかりしました」

 

結果発表の通知は封書だった。奨学金を得られるか。夢を実現できるか。人生がかかっていた。5分経って思い切って中身を確認すると、合格。奨学金の情報をもたらせてくれた医師に真っ先に連絡した。

 

5 お手紙s

かつてお世話になった医師、看護師、そして病室で出会った人たちかもらった手紙。宝物だ

 

 

夢の奨学金は、知らない誰かが応援してくれるお金

 

進学先は、東京ではなく地方都市の学校。敢えてそうしたのは、新しい生活をスタートするためだった。「東京では、よくない交友関係が残っていたし、そっちに逃げる傾向が私にはあったから。全く縁のない場所で、自分を変えたかったんです」

 

夢の奨学金が、寄付金で成り立っていることも強く意識した。「企業の奨学金とは違って、善意で集まったお金を頂くわけですから、より無駄にはできない。東京にいたら無駄にするかもしれないと思いました」

 

お金の出どころは、一時期、学校を続けるのが苦しくなった時に支えにもなってくれた。「入学してから頂いたお金をすべて計算してみたんです。これだけの金額がすべて無駄になるのかと。辞めるわけにはいかないと思いとどまりました」

 

「夢の奨学金を得られなかったらどうなっていたか、ですか。学校に入れたとしても、お金が続かなくて退学していた、いや、そもそも入っていなかったかも。今頃、死んでいたか、刑務所に入っていたかもしれません。夢の奨学金には、人生を変えるきっかけをもらいました」

 

「帰る場所、どうしよう」と毎晩思う日々がほんの数年前まであった。友だちと健全に遊ぶ気力、余裕もなかった。今でも、もちろん楽しいことばかりではない。すべての過去を乗り越えられておらず、泣いたり傷ついたりしやすいし、嫌なことから逃げる傾向もある。

 

それでも学生になってから、やはり大きな変化があった。クリスマスパーティーや花火を友だちとやる。ただそれだけのことだが、その場で友人と楽しく過ごす自分が新鮮だ。

 

「多くの人にとって普通のことだけど、私にとっては初めての経験をここでやっています。戴帽式の後の外出も、だからとても楽しみなんです」

 

人が信じられず、世の中の全てが敵だと思った時もあった。でも今は違う。当時の自分を救ってくれた人たちに、「看護師になりました」と笑顔で報告する日が待ち遠しい。

 

6 校門s

学生生活は、早くも残り1年余り

 

 

社会的養護の後輩、申請を予定している人へのメッセージ

 

「諦めないでほしい。夢も、人生も。もしかしたら、今は独りぼっちだって思うこともあるかもしれない。でも絶対味方になってくれる人、わかってくれる人はいるよ」

 

「生きていると辛いことの方が目立ってしまうことが多いと思う。けど、楽しいこと嬉しいこともたくさんある。人生はいつからでもやり直せるよ。大丈夫」