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採択奨学生の動き

第1期奨学生インタビュー第4回

施設を巣立った後の進学 強い意志と努力で実現

1日本財団夢の奨学金がスタートして初めての夏、第1期奨学生4人にお話を伺いました。彼らの現在の生活や生い立ち、奨学金を得ての思いを順にレポートしています。第4回は、芸術系大学1年の学生です。

 

 

女子大学生、19歳。夢はアートクリエーター

 

長い黒髪にきゃしゃな体。細身といっても健康的な雰囲気が伝わってくるのは、ダンスのレッスンによるところが大きい。幼き日、アラビアンナイトに出てくるお姫様みたいだと目が釘付けになったベリーダンスなどに現在打ち込む。アジア系の衣装を身にまとって舞う姿を、容易に想像できるルックスだ。

 

この春、大学生になることができ、アートの世界にどっぷりと浸っている。平日は一日を除いて授業は夕方まで。1年生のうちは、油絵から陶芸、ガラス制作までと学ぶ内容も幅広い。週3回は、授業が終わればスタジオに直行し、午後6時からダンスのサークル活動。新たな振り付けを必死に覚え、3、4時間のレッスンが終わる頃には息が切れて腹筋も痛くなる。バイトもあり全力投球の毎日だが、「学校もサークルも、ずっとやりたかったこと。楽しくて仕方ありません」と気に留めない。

 

アートを学ぶことができるなら大学に行く。そうでなければ、進学はしない。そういう覚悟で受験に臨んだ。事情があって高校を中退し、施設を出てから16歳で独り暮らしを始めた。その頃からバイトで生計を立てる生活。仕事の合間に、スケッチブックに自己流で好きなものを描きながら、いつかは学んでみたいと夢を膨らましてきた。

 

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高校中退した後、バイトの合間に書きためた大切なスケッチブックの1ページ

 

暴力を経験し、なくそうと立ち上がった施設時代

 

物心つくかつかないかのうちに、社会的養護の子になった。当時は静岡県で母親と2人暮らしだったこと、そして、母親がアルコールを手放せない状態で、お酒が入るとヒステリックになっていたことを覚えている。まずは、同じ地区の里親さんに引き取られ、その後、小学1年生になった時、実家のある愛知県に戻った母親が強く要請したため、同じ愛知県内の児童養護施設に移った。母とは中学2年生の頃に死別し、詳しい事情はよくわからない。

 

愛知県内の児童養護施設には、乳児院を出たばかりの2歳から10代後半までの40人ほどの子どもが暮らしていた。家族ではないが誰かがいつもそばにいてくれる環境。クリスマス会など年中行事もあり、ワイワイと賑やかな生活を楽しんだ。

 

ただ、入った直後は「毎日が地獄だった」。子どもの間での暴力が絶えず、特に上下関係は厳しくて、男の子、女の子の集団にそれぞれいるボスを頂点に、強い者が弱い者をストレスのはけ口にしていた。最初の夏休みには、ボス的存在だった中学生の女の子から鍵を掛けた部屋で顔を思いきり殴られた。殴られた衝撃で体が窓ガラスにぶつかり、音で気付いた職員に幸い助けられた。男の子の間では画びょうを置いた床の上を歩かせられる嫌がらせもあったと聞き、それよりはマシだったと思うが、男の子から女の子への性的虐待もあるなど、二度と経験したくない生活だ。

 

「中学生に殴られたときは、あまりの恐怖でおもらしをしてしまいました。目の上に大きなあざができ、一生忘れられない出来事ですが、その子は今、私の存在さえも覚えていないようです。暴力は、ふるった側はすぐに忘れるけれど、された側は一生残る。虐待も同じことだと思います」

 

小学5年生の頃、その殴った相手が施設からいなくなった。それを機に、残った子どもたちで暴力は止めるようにした。上の子が小さい子に向かって命令口調になりがちなのも、気をつけた。次第に雰囲気も変わり、集団生活の良さを実感できる日々が訪れた。施設は大好きな存在になった。

 

大好きになった施設をやむなく巣立って自立の道へ

 

その施設を出ることになったのは、皮肉にも施設で暮らしたいというこだわりからだった。中学を卒業すると義務教育は終わる。そのため、規定によって高校に進学しない限り施設から出なければいけなかった。そこで、何としても高校に行こうと決め、経済的な制限の中でも進学できる公立高校を選び受験した。

 

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バイトの合間に鉛筆を走らせた絵。「花が好きなので、たくさん描きました」

 

ところが、努力が実って入学できたものの、勉強がしたくて選んだ道ではないことが、日を追うごとに頭をもたげてさせた。通学中にサラリーマンを見て、なぜ私は働いていないのだろうと考えるようになり、一度働いてみたいと思うようになった。次第に不登校になり、施設の子どもたちとの関係も気まずくなっていたし、高校に残るという妥協をしても、いずれは辞めることになると想像できた。「辞めるなら今だ」と入学から1カ月で決断。施設の園長からも「頑固」と言われるほど決心すると一直線の性格で、まもなく高校を中退した。

 

まずは、自立援助ホームに入所した。施設から巣立って社会に出る子が、自立に向けてワンクッション置くために半年から1年ほど暮らす場所だ。中退した年の8月に入所。すぐに働きたいと思っていたが、高校だけは卒業しておかなければとも思っていたので翌9月、まずは単位制の高校に入学し直した。仕事はそれが落ち着いた12月に始め、翌年7月までに50万円をためて、独り暮らしの原資にした。16歳の自立は、生活費と学費を稼ぎながらの船出となった。

 

大学には行くつもりはなかったが、高校3年生になって進路の話をした時、先生から掛けられた言葉が胸に響いた。「まずはお金に関係なく、考えてみて」。これまで、お金のことが決断の大きな位置を占めていた。それを取っ払ったとしたら、自分は何がしたいのか。初めて進学を意識し始めた。

 

周りにも相談した。するとある人が「自分が行きたいと思ったら行けば」と言ってくれた。それが刺さった。個人の楽しみとして続けてきた絵が、頭に浮かんだ。これを学べたらどんなにいいだろう。希望が膨らみ、様々な大学を検索してみた。その中で、現在在籍する大学が見つかった。そこには、細かな学科に分かれている他の大学と異なり、1年のうちに幅広くアートを学べるコースがあった。「ここだ」

 

オープンキャンパスにも足を運び、すっかり魅了された。授業で好きなことが学べるなんてすばらしい。しかも4年間だ。もし、このまま社会人となっても、いつ学べるかわからない。できるうちに、できることを学んでおきたい。夢が膨らみ、決意を固めた。自立援助ホームにいたときからお世話になっている、親代わりのような弁護士に相談したら、「応援する。ぜひ頑張れ」と激励してくれた。進学すると言っただけでここまで喜んでくれる人がいる。それも力になった。

 

しかし、進学を決意したものの、やはり経済的なハードルは高かった。貯金はしていたが、とても賄えない。既存の奨学金も当たってみたが、返済が必要なものなど、その後の生活を圧迫することが目に見えているものばかり。バイトを過密に入れても、制作の時間が無くなって何のために進学したのかわからなくなる。

 

困っていたところに、この弁護士と、以前暮らしていた施設の園長から、ほぼ同時に日本財団夢の奨学金の募集情報が入った。給付型で、しかも学費も生活費も出る。この奨学金だったら何とかなると思った。「これが受かれば進学。受からなかったら進学は諦める」と思い定めて応募した。

 

結果によって人生が変わる。毎日、アパートの入り口にあるポストを息をのむようにして確認した。ある日、結果の封書がそこにあった。ポストからひったくるようにして手に取り、部屋に戻るのも待てずに立ったまま開封。合格だった。応援してくれていた弁護士と施設の園長にすぐに連絡を入れた。大学進学の夢が現実になった。

 

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アートを学ぶ日を夢見て作品を描きためてきた

 

サークル活動も奨励する奨学金 やりたかったことを貪欲に追求

 

この奨学金を得て良かった、というより、この奨学金でなければやっていけてなかったと今、実感している。まず、授業では様々な作品を制作するため、画材にお金がかかる。また、芸術作品を見ることも勉強の一つとされるため、各地の美術館を訪れることも多い。それぞれの交通費や入館料は授業料に含まれていないため、ここにも出費がかさむ。他の奨学金や、自己資金ではとても続けられない。

 

「夢の奨学金は、画材費や入館料も勉強に必要なものとして支給されるので、本当にありがたい。特に画材は品質によって値段が大きく異なるので、価格に左右されずに品を選ぶことができるのが幸せです」

 

夢の奨学金が、サークルといった大学生ならでは課外活動を推奨していることも、大きな励みになっている。バイトを以前よりも減らして、それによって生まれた時間を、絵と同じぐらい魅了されていたダンスに割くことができるようになった。プロも輩出しているサークルに入れ、先輩たちのかっこいい姿に刺激をもらっている。辞める人も少なくない厳しい練習が続くが、同じ学年の仲間と一緒に続けようと誓い合っている。

 

16歳で自立援助ホームを出てから、独りで頑張ってきた。自力で高校を卒業し今、大学にも通っている。「施設を出て自立した後に大学に行くなんて聞いたことがない」と園長からも褒められた。確かにそこまでやったケースを他には知らない。しかし、この頑張りには、社会的養護の子に対してまだまだ偏見が残る社会に対して「見返したい」という思いも背景にある。

 

施設にいたからというだけで、「特別な子」「かわいそうな子」という目で見られることに、嫌悪感があり、周囲の人に境遇は伝えていない。学校でも、バイト先でも、同志が集うサークルでも。偏見を変えようとする努力もあっていいが、そこでエネルギーを使い果たして、やりたいことができなくなったらもったいない。そう考えて、あえて明かさないように決めた。「言わないということも、自分にとっては必要な勇気なんです」

 

信頼できる人、理解してほしい人に、打ち明ければそれでいい。大切なお金を支給してもらっての大学生活だ。他者に左右されず、自分のやりたいことに邁進することが、今自分がやるべきことだと感じている。そして、支えてくれる人たちに「施設出身者だけど、ここまでできたよ」と胸を張って伝えられるように、まずは、日々のアートの勉強、そしてダンスのレッスンに打ち込んでいきたいと思っている。

 

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進学前に描いた未完の油絵

 

社会的養護の後輩、申請を予定している人へのメッセージ

 

「とにかく情報を集めるように。自分で動いていると周囲から入ってくる」

 

「他人に無理に合わさない。自分の思いを大切に、希望を捨てずに頑張ってください」