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採択奨学生の動き

第1期奨学生インタビュー第6回

辛いときも、愛する音楽と文化に救われた

1期生は3年の間に、さまざまなことを経験して今に至っています。通算第6回目となるインタビューの相手は、日本福祉大学社会福祉学部4年生の女子学生です。夢の奨学金によって、学費を工面するため続けていたアルバイトから解放されました。一方で、張り詰めていた糸が切れ、大学に行けない時期がありました。すっかり回復した彼女が、これまでの道のりを語ってくれました。

 

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女子学生、23歳。夢はソウルバー開くこと

 

8月中旬、夢の奨学金の交流会に顔を出した。奨学生の集まりに参加したのは2年ぶり。2、3期生とは初顔合わせだ。なじみの1期生も少ない中、臆することなく輪に溶け込む。構えずに自分らしく振舞えるのは、他の奨学生より少し年上と言うだけでなく、壁を乗り越えてきた経験によるものかもしれない。

 

彼女は2017年度の後期、心身の不調を理由に大学を休学し、この春、半年ぶりに復学した。その前の1年ほど授業に行けない時期が続いていたから実質、1年半のブランクがあった。

 

4年生の今、後期の授業は7コマで、通学するのは週3日だ。知多半島の南にあるキャンパスまで、名古屋市内の住まいから1時間半かけて車で行く。学ぶ内容は以前に増して、より専門的になってきた。

 

以前は性的マイノリティ、いわゆるLGBTの人たちとの交流サークルに入っていたが、復学後は、空いた時間をフレンチレストランのアルバイトなどに充てている。「働いているレストランは、とてもいい素材を使った美味しい料理を出しています。ぜひ来てください」と大きな瞳を輝かせて話す。

 

「自分以外は、すべて社員」というその店では、ソムリエ、パティシエ、バリスタなど、どのスタッフも高い技術を目指して研鑽を積んでいるという。「バイトは私一人。覚えなければいけないことが沢山あるけれど、多くのことを学んでいます。いずれお店をやりたいので、こうした店で様々なスキルを取得しながら働けるのはとてもありがたいです」

 

将来の夢のために、大学以外でも学びを大切にする毎日だ。

 

自殺願望のある母と共依存にあった子ども時代

 

社会的養護の子として保護されたのは、16歳のころだ。原因は母親だった。

 

母親はアルコール依存症で、他にも精神疾患を抱えていた。そして自殺願望がとても強く、彼女が外出から帰ると、母親がくの字になって倒れていたり、頭にビニール袋を被っていたりということが何度もあった。

 

「背景には、生い立ち、実父(母親の夫)からのDVと浮気、借金苦などがありました。母は実母と幼くして死に別れているので、愛着の形成もなされていなかったと思います。私を愛する気持ちがあっても、母親として、子どもにどう接していいのかわからず、難しかったんだと思います」。彼女の振り返りは冷静で、学んできた知識も踏まえて語られる。

 

荒れるのはお酒を飲んだ時だけ。しかし、独りにしておくと母親が大変なことになる。母親が心配だったり、自分にも学習障害があったりして、小学校高学年のころから次第に学校に行けなくなった。

 

「母のことを、いろんなところに相談に行きました。警察とか、病院とか。でも、母親は自身を理解しようと努力した結果でもあるのですが、その分野の知識は多く持っていて、電話でカウンセリングを受けても、うまく相手をあしらってしまうんです。『こんな相談電話、何の役にも立たない。余計なことをしないでよ』と、カウンセリングを勧めた私を叱るということが続きました」

 

中学生の年齢になると、「グレた」。やんちゃな友人らと悪いことをしては、気を紛らわせた。だだ、精神的に追い詰められても、母親への愛情は変わらない複雑な心境だった。「母が好き。だけど、帰るのは怖い。だって、今日こそは死んでいるかもしれない」。そう思いながら、いつか支援を得られる時のために、母親の症状を克明に記録し、バインダーにまとめ続けた。

 

16歳の時に保健所へ相談に行き、それが転機となった。事前に電話をして訪れると、ケースワーカーが2人待っていた。「お母さんを助けてほしい。今日何も変わらなかったら2人で必ず死にます」。脅しを交えて訴えると、ケースワーカーは思いがけない言葉を掛けてきた。「お母さんを助けたいと思うのなら、まずはあなたが自立しないと」

 

「今思うと、当時の私と母親は、(二人の関係から抜けられない)酷い共依存の真っただ中にありました。だから、ケースワーカーの人が、(保護に同意できるような)そういう言葉を選んでくれたことに、今は感謝しています」

 

その場で、翌日保護されることに同意した。帰宅して夜を迎えた時、母親のこれからを思いやった。ケースワーカーの人たちには「母は私がいなくなったら必ず自殺する。口先だけではない。だから絶対に母から目を離さないで」と何度も念を押していた。何も知らずに隣で寝入った母の顔を見ながら、思わず、手を合わせた。

 

「これで血の通った母を見るのは最後になるかもしれない、って思ったんです」。インタビュー中この時だけ、彼女の目には、涙があふれていた。

 

予定通り翌日に保護されて、一時保護所に入った。間もなくして、母親が腹部に出刃庖丁を突き刺し、集中治療室に入っていると聞かされる。あれほど念を押して伝えていたのに、と周りの大人たちに抗議したが、母親には会わなかった。

 

周囲への憤りが進学意欲に火をつけた

 

義務教育の学齢を過ぎ、進学していない彼女はその後、一時保護所から自立援助ホームへの入所が決まった。自立するためには、働かなければならない。カフェで朝から晩まで週6日、アルバイトをした。そこで働いていたパートの人たちは陽気で、彼女が最年少ということもあり、心からかわいがってくれた。しかし、正社員として働きなさい、というホームからの勧めもあり、しばらくして、転職。その職場で打ちのめされた。

 

「とにかく環境が苛烈でした。最初と話が全く違って、7時半から25時までの労働。それでも、ちゃんとした店だったらまだよかったのですが、『シェフ特性のスープ』は市販のスープに生クリームを混ぜただけなど、お客に対して不誠実で衛生管理も劣悪。そのほかにも不正を多々目撃しました」

 

働くほど募っていく憤り。「おまえはどうせ中卒だから」と学歴を差別する言葉を連発され、お客さんの前でもからかわれ、怒りが頂点に達した。「絶対に見返してやる」。高等学校卒業程度認定試験(高認)に向けて猛勉強を始めた。

 

「現代は、無料でとてもいいサイトがたくさんあります。私も、高認の勉強では、マナビーという動画配信サイトを見まくりました。それから過去問をひたすらやって。空き時間は基本全て勉強。歩くときも、暗記が必要な事柄を口ずさみましたし、頭の中で、先生と生徒の2役を演じながら自分に教え込みました。勉強し始めは、掛け算すらままならない状況でした」

 

不登校だった義務教育の勉強からやり直す必要があったが、思いは途切れなかった。猛勉強を始めてから半年後、19歳の9月に高認に合格。助けを必要としている人を福祉を勉強して救いたい、とその冬に受験した日本福祉大学にも合格することができた。

 

しかし、試練はこれで終わらなかった。

 

お金が足りない現実に直面する。「ホームでも、具体的な奨学金制度の話や、大学入学の手続きなどはあまり教えてもらえず、漠然としたまま勉強していました」。入学する時には学費に加えて、入学費がいる。独り暮らしをしていたから生活費がかかるのに、授業がある日中はバイトができない。せっかく入学した大学だが、いつものバイトだけでは、どう計算しても続けることは不可能だった。

 

選択肢は一つ。だからプロ意識を持って臨んだ

 

夜の仕事に流れたのは、必要に迫られてのことだった。ホームでは、3人の女の子が同様の仕事をしていた。「その子たちが寮費を滞納し、やむなく夜の仕事をして返済したら、職員は『そんな仕事をしながらも返してアイツはえらい』とほめていたんです」。ホーム職員への不信感とともに、お金を作る手段として、彼女たちと同じ仕事が脳裏に浮かんだ。勉強の時間を確保しながら必要なお金を得るために、選択肢は他になかった。

 

「今思えば、貸付奨学金等借りていればよかったのですが、知識が浅く、通るとも思っていませんでした」

 

抵抗は強かったが、やるからにはプロ意識を持って臨もうと決めた。「ただでさえ1年遅れで入学したのに、周りの子たちは親のお金で大学に行けていて、やっぱり私は他と違う。孤立感を抱えたまま、絶対に負けるわけにはいかない」と、無理に溶け込んで、友人と付き合う日々を送っていた。

 

そんなある日、日ごろから気にかけてくれていた大学の先生から1通のメールが届いた。「こんなのがあるよ」。夢の奨学金1期生募集の告知だった。いろいろ検索しなくても済むよう、必要情報が網羅され、申請書類もPDFで添付してくれていた。2015年11月のことだ。

 

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先生から届いた、夢の奨学金知らせるメッセージ。「本当に愛のある行動だと思う」

 

申請書は提出したものの、「自分のような人はまず受からないだろう」と思っていた。面接の日も、いつもと同様、未明まで働いていた。JR名古屋駅周辺の面接会場の真裏にあったコインパーキングに車を止めてイスを倒し、アラームをかけて仮眠した後、車内でスーツに着替えて、面接に向かった。

 

通知が届いた日。その日は12時間ぐらい働いていた。ちょうど学費の納期が迫り、お金に苦しい時期だった。家賃2万5千円の狭いアパートに帰宅したところ、ポストに日本財団からの封書があった。開くと、”合格”とあった。「…え?じゃあもうこの仕事しなくていいの?」。天と地がひっくり返った気分だった。その日、その時間に、電話を入れてすぐに夜のバイトを辞めた。

 

ところが、しばらくすると、予想していなかった問題が起きた。自信がなくなり、気力が低下し、学校に行くことができない。何をするにも気持ちが落ち着かず、とめどなく涙が流れる。1年生の時には単位をすべて取るなど、これまで勉強を第一に頑張ってきたのに。2年の終わりになって、いよいよ勉強も専門的になっていくという時に、どうしたことか、とうろたえた。

 

解離性障害。自分を鼓舞して続けていた仕事が突然、消えてなくなったことが引き金になり、これまでの辛い経験が原因で、精神のバランスを乱し始めていたのだ。「モチベーションを高めて、自信を持って仕事していたんです。それが突然、膨大な時間ができて、過去の自分のパンドラの箱が動いたという感じです。『そろそろヤバい。このままでは総合失調症になるかもしれない』という時期もありました」

 

心のより所になった大好きな音楽

 

その時に、心のより所になったのは、飼い猫とブラックミュージック(黒人音楽)だった。特に後者は、13歳の頃から聴き始め、1日に最低1回、儀式のように必ず耳にした。「辛い時にも、これを聞けば無になれる。勉強にも集中できるんです。なんでこんな辛いことを乗り越えられてきたかと問われれば、ブラックミュージックがあったから、本当にそれ以外ありません、と答えます」

 

その効果もあったのだろうか。少し落ち着いて、回復には休息が必要だと気が付いた。学校に行きづらくなってから1年ほどたっていたが、思い切って半年間休学。ブラックミュージックの部分的なルーツである米国デトロイトを訪れるなど、好きなことをする時間に、初めて自分を浸した。

 

同じブラックミュージックを愛する人々にも沢山支えられた。「ソウルミュージックはまさしく魂。日々、愛する音楽のルーツを辿るうちに、心の平穏を次第に取り戻し、復学するまでに回復できました」

 

夢の奨学金の申請当時、将来の夢を「社会的養護施設職員、または関連NPO職員」と表現した。だが回復した今、本当に自分がしたい事というのが具体的に見えてきた。「やっぱり、ずっと昔から夢だった、美味しい食事と素晴らしいブラックミュージックを兼ね備えたソウルバーを開きたい」。奨学金を得たからこその葛藤と困難を乗り越え、清々しい表情で語ってくれた。

 

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卒業まであと半年余り。残りの学生生活を大切に過ごすつもりだ

 

 

社会的養護の後輩、申請を予定している人へのメッセージ

 

「自分の本当に好きなこと、笑えること、楽しい気持ちになれることをもっと大事にして。私は大好きなブラックカルチャーに救われた」

 

「オフの時は自分に甘く、自分の好きなことをすること。社会的養護の子は認められようと頑張りすぎる。困難なこともスルスルッとそれとなく、くぐり抜けられるように生きていってほしいから、自分の愛することを大事に生きていってほしい」

 

「学校や家庭や対人関係にとらわれないで。ちょっと変わった体験や、色々な文化に触れて。あなたでも必ず回復できる時はくる。安心してゆるゆる生きていこう。焦りは禁物」