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採択奨学生の動き

第1期奨学生インタビュー第3回

過酷なバイト生活乗り越え、大学生の喜び噛み締める

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日本財団夢の奨学金がスタートして初めての夏、第1期奨学生4人にお話を伺いました。彼らの現在の生活や生い立ち、奨学金を得ての思いを順にレポートしています。第3回は、日本福祉大学社会福祉学部4年、清水唯歩さんです。

 

 

清水唯歩、22歳。夢は警察官

 

名古屋市の中心部から電車を乗り継いで1時間余り。中部国際空港も間近に見える知多半島の田園地帯に、突如としてグラウンドや白い建物群が現れた。清水唯歩さんが学んでいる日本福祉大学の美浜キャンパスだ。「周りは何もないんですよ。田舎だから、バイトをしようにも飲食店だって午後9時には閉まってしまいます」。3年前には見ず知らずだったこの街も今では “地元”だ。

 

4年生になった現在、授業は週に2日、しかも半日だけ。それ以外の時間はもっぱら就職に向けた受験勉強とバイトに充てている。バイトは、飲食店と、社会的養護の子が家庭的な雰囲気の中で暮らすファミリーホームの2件。日本財団から奨学金を得た今でも返済しなければいけないお金は残っていて、働く必要性は消えてない。「今までお世話になったバイト先の人たちに、突然辞めて迷惑をかけるわけにはいかない」という思いもある。

 

大学生活も残り1年を切ったが、やりつくした感は全くない。むしろその逆。これまで、生活費と学費を捻出するために必死で、学業の他はバイトに明け暮れた。一般の学生であれば入学時から楽しんでいるようなことを、時間的、経済的、そして精神的にもすることができなかった。「夢の奨学金の奨学生になって何が変わったかって、初めて友人と食事に行けるようになったことです。食事自体ではなく、そこで話ができるのが嬉しい。いろいろな人から、刺激を受けています」。かみしめるように語った。

 

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「これまでの大学生活で、今が一番充実しています」

 

やんちゃな時期を経て、サッカーに没頭した子ども時代

 

幼い頃、広島県で生活していたが6歳の時、親の離婚がきっかけで地域の児童養護施設に入所した。母親が自分を育てられなくなったからだ。よく覚えていないが、児童相談所に保護された時は、母親と離れるのが悲しくて泣き続け、しばらくして施設に行く時はまた、そこで懐いていた大人との別れが辛く大泣きしたと、後になって職員から聞かされた。

 

2000年代に入ったばかりの頃、施設には元気な子が多かった。喧嘩っ早い子も少なくなく、毎日ではなかったが、職員に叱られるなどして積もったモヤモヤを、下級生に叩くなどして晴らす上級生もいた。突然そんな子どもたち約60人との生活が始まり、慣れるに従って、自分も強がるような言動を真似るようになった。学校では同級生と過ごすため、大きい敵がおらずガキ大将に。一番荒れていた時期は、面会に来た母親にも「死ね」「あっち行け」などの暴言を吐いた。「自分でも、今とは全く違う性格だったと思います。当時を知る友人に成人式で再会した時、目を丸くされました」

 

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大学では児童養護に関することも学ぶ。施設への入所理由のデータから、

自分が入所した当時、同じように親の離婚が最も多かったと知った

 

小学校5年の時に、学校で女の子を殴ってしまう事件を起こした。母親や職員から、男の子とけんかした時とは比べものにならないほど叱られた。自分でもこれはまずいと思い、親身になってくれる大人の姿にも心を動かされ、態度を改めるようになった。小学校6年からは、それまで遊びで楽しんでいたサッカーを習い事として始めたことから、止めされられないように言動には更に注意するようになった。

 

大好きなサッカーは、中学でも高校でも続けた。高校にはスポーツ推薦で入学。机に向かって勉強することはほとんどなかったが、スポーツ科だったため、体育の科目が5つもあり成績表には常に優秀な数字が並んだ。

 

高校3年で進路を決める時、警察官になろうと決めた。施設で大好きだった上級生が警察官になったことが理由だった。しかし、試験に向けた努力が実を結ばず、事前に準備をしていた大学進学に舵を切った。相談した職員に「子供と接するのが上手だから、施設職員に向いているよ」と言われ、ならばと思い福祉の道を選択していた。

 

日本福祉大学を目指したのは、奨学金などのサポートが充実していたからだった。広島から愛知への転居を伴うものだったが、進学と同時に県外に移る友人も多く、あまり気にならなかった。お金の面も、職員との面談で、奨学金がもらえたらきついけれども何とかなるだろうと見通した。

 

心も疲弊したバイト漬けの日々 夢を追う決心で脱出

 

ところが、その見通しの中で想定していなかったことが一つ起きた。主将を務めていたサッカー部が県大会準決勝に進むなどし、引退するのが結局、2月ごろになったのだ。施設の子は一般的に、高校卒業までにバイトをして、巣立った直後の生活費などを工面するが、卒業ギリギリまでサッカーをやっていたため、それが全くできなかった。それが、その後の大学生活に影を落とす原因になった。

 

入学時、広島の施設から職員がアパートの契約などのために大学まで付き添ってくれた。しかし、夕方になるとお別れを言い、部屋で独りぼっちに。新鮮な気持ちもあったが、感慨をかみしめる時間はそう長くなかった。当時、学費のための奨学金は得ていたが、生活費は貯金が頼り。しかし、事前のバイトをやらずに大学生になったため、原資は少ない。長時間のバイトをこなす生活が始まった。

 

「1、2年の頃は、1日中お金のことを考えていました」。こまめに照明の電気を切ったり、水の使用をできるだけ控えたりした。バイトは3つ掛け持ちし、1日に2つ入れた。授業が終わった夕方から午後9時過ぎまでが飲食店、そのあと午後10時から翌日の午前6時までがコンビニエンスストア。3時間ばかり寝て、再び学校に行く毎日。その頃のことはあまり思い出せない。覚えているのは、ただただしんどくて、授業もほぼ寝て過ごしていたということだけだ。

 

しかし、そんな過酷なバイトをしながらも、お金は足りず、学費に充てるための奨学金も生活費に回さざるを得ない状態に。学費の支払いに困り、中退を考えたこともあった。

 

何とか3年生に進級した頃、物事が好転し始めた。「このままではいけない」と思い悩んだ末、将来の目標を警察官に再び定めた。目標が明確になり、それを心の軸としたら、新たに奨学金をもらえるようになった。「学校を通じて3本出したら、全部通ったんです。こんなこと、まずないって窓口の人からも言われました」

 

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就職試験の勉強セット。ナッツ類は頭の働きをよくすると聞き、欠かさず携帯

 

バイトの時間も以前に比べて少なくし、最低限の睡眠時間と、必要だった勉強の時間を確保できるようになった。少し余裕が生まれたことで、目標に対してどう頑張っていいのかも落ち着いて考えられた。就職試験のための勉強は、確実に実力をつけられるよう予備校に通うことにした。30万円という大金が必要だったが、自分への必要な投資だと判断。バイトで何とか工面する算段も整えた。

 

夢の奨学金をもらうのは、大学4年になってから。給付を受けるのは1年間だけだ。率直なところもっと早くもらえるようになっていたら、とも思うが、お金のことで疲弊していた1、2年の頃だったら合格はしていなかっただろうとも考える。夢を明確に持ち、人にも語れるようになったのは、あの時期を経たからこそではないか。そう思っている。

 

経験したこと全てが今の自分を作っている

 

過酷だったバイトだが、それらも決してつらいだけではなかった。飲食店でのバイトでは、社会について教えてもらった。いろいろな人がお客として来るし、大将から人生について話してもらうことも多かった。

 

週末に行っているファミリーホームでのバイトは、自分と同じような境遇の子どもたちのお世話をする。ファミリーホームの存在は、大学生になって子どもたちのキャンプにボランティア参加するまで知らなったが、養育者との距離が近く、子どもにとっていい環境だなと思いながら楽しく関わってきた。採用面接で「多くの給料は出せないよ」と言われたが、お金だけを目的としない、大切な時間になっている。今では、知多半島に3つほどある同様のホームに仕事外でも訪問することが増えた。

 

夢の奨学金の情報も昨年12月、このファミリーホームで得た。たまたまバイト中に、お知らせの封書が届いた。社会的養護施設ということから郵送されてきたようで、そこの“お母さん”が「これ、清水くんも、対象になるかな」と言って渡してくれた。テレビを見ながら、ポンと片手で渡された紙には、条件のよい奨学金の募集が記されていた。その手の奨学金はおおよそ新入生を対象としていると知っていたので、文字をたどっても自分が対象かどうか自信を持てなかった。ダメ元で問い合わせ先の番号に電話を掛けた。それが奨学生になる第一歩となった。

 

夢の奨学金を得た気持ちは、「助かった」の一言に尽きる。お金があるということで余裕が生まれ、一歩引いて自分や周りを見ることができるようになると実感した。最近、「何だか考えを見透かされているようで怖い」と友人から言われることがあるが、そういう心境も影響しているのかもしれない。

 

自分の強みも分かってきた。他者との関係の作り方が得意。例えば、入学時から書類のことなどわからないことだらけだった。切羽詰まってその都度、市役所に率直に相談し、様々なことを教えてもらった。今では、窓口の人たちは顔見知り。こうして培ったコミュニケーション力は、今後の人生でもきっとプラスになると信じている。

 

「よく相手の対応に不満を抱いて文句を言う人がいますが、そんな人に限って自分の言い方、話しかけ方はどうだったのかを顧みていないように思います。社会的養護の子はコミュニケーションが苦手とよく言われますが、そうした点を踏まえると、相手との関係が良くなるかもしれない。そうしたことを機会があれば後輩にも伝えていきたいです」。喧嘩っ早かった男の子は、他者にも心配れる青年となり、間もなく社会に羽ばたこうといている。

 

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社会人になる日まで、大学生として経験できることを精一杯やっていくつもりだ

 

 

社会的養護の後輩、申請を予定している人へのメッセージ

 

「どこでチャンスが回ってくるかわからない」

 

「何事もあきらめずチャレンジ。今どんなに大変でも必ず何か起こるはず」