第1期奨学生インタビュー第1回
支えてくれる人との出会いで自分の道を切り開く
2016.07.29 (金)
日本財団夢の奨学金がスタートして初めての夏、第1期奨学生4人にお話を伺いました。彼らの現在の生活や生い立ち、奨学金を得ての思いを順にレポートします。第1回は、中京大学法学部1年、長谷川俊介さんです。
長谷川俊介、19歳。夢は中学校教諭
太い腕と厚い胸板が、Tシャツをワンサイズ小さく見せる。高校までラグビーで鍛えた逞しい体は卒業後4カ月を経ても健在だ。「ジムに行ったりして、今も運動は続けています」。大学キャンパス一角の待ち合わせ場所に現れた長谷川さんは、リュックサックを片肩にかけて人懐こい笑顔を見せた。
今春、念願の大学進学を果たした。ただ、高校時代と異なることが多く、入学当初は戸惑いも多かった。高校より大幅に長い90分の授業は平日の3日間、1限から4限まで入っている。板書も少ない。講義では、重要な部分を自分で判断してノートに書き留める作業が続く。オリエンテーションで言われた「大学では能動的に勉強しなければならない」という教えを、実感する毎日だ。
「私立」という環境にも、慣れるのに少々てこずった。例えば、設備の良さ。そして、お金の心配とは無縁に見える学生たちとは、溝を感じることもあった。しかし、初めての学期を終えようとしている今、似たような価値観を持つ友人が見つけられ、気付けば衣食住に困らず、夢だった大学に通う自分がいる。これまで支えてくれた人たちのためにも、中学教諭になるという目標に向かって頑張ろうと思っている。
「大学に通えていることは、本当に奇跡」
突然やってきた経済的困難 自ら声を上げ施設に
「養護とは全く関係のない普通の家庭で育ったんです。どちらかというと裕福な方だったと思います」
幼少時代、畑に囲まれた長閑な地域で、両親と姉、それにおじ夫婦と共に暮らしていた。自然が豊かな故郷で時間を忘れて遊んだ記憶は、今も温かいものとして残っている。
その生活に影が差し始めたのは、小学2年の時。父親が病気になって仕事を辞めざるを得なくなった。頼みの母親も精神的に不安定となってギャンブルに依存するようになったことから、次第に借金が膨らんだ。中学3年になる頃には、返済できない状況に。思い出の詰まった家を出ることになるのにも、時間はかからなかった。すでに他界していたおじ夫婦と家を出ていた姉を除いて、家族3人で違う町のアパートに移った。
心機一転、生活も良くなるかと思っていたが、現実は厳しかった。収入は2カ月に一度、偶数月に給付される父親の障害年金のみ。水道料金が払えず、水を止められるほど生活は困窮した。自宅から中学までの鉄道の2駅分の乗車券を購入するお金もなく、やむなく学校が禁止していた自転車で通学した。偏見を恐れ、友人にも家庭の事情は絶対に知られたくなかった。バレないようにと、学校から離れたところに駐輪し、何食わぬ顔で校門をくぐった。
そんな中、心の拠り所となったのが、所属していたラグビー部だった。仲間と競技に打ち込むことで精神的にも健康でいられた。県代表選手にも選ばれ、高校受験時には、当然のように公立の強豪校を志望。推薦入試で、入学許可ももらえた。両親が、厳しいながら入学金も用意してくれた。
その入学金を入金直前に失ってしまう事件に遭いながら、何とか高校に進学したものの、状況はさらに悪化した。「家が大変でも中学の時は何とかなっていたんです。制服を着て学校に行けば、教科書ももらえるし、給食も出る。でも高校はそれがありませんでした」
出費がかさみ、入学から1カ月ほどたったある日、とうとう明日使うお金も底をつきた。家の電話も止められ、食べるものもなくなっていた。たまたま両親は二人とも外出中で、独り水ばかりを飲んでいた。どうしようもなくなり家を出た。向かったのは、市役所。養護施設の存在を知っていたので、自ら相談窓口で掛け合った。「今すぐ入れる施設はありませんか」。即日保護された。一時のことと思っての行動だったが、もう家には帰れないと知らされた。社会的養護の子としての生活が、始まった。
ご飯の心配はなくなった。でも、大学進学の夢は
施設に入って、まずはホッとした。温かいご飯が食べられて、寝るところがあり、お風呂にも入れる。ようやく普通の生活が送れるんだという思いが強かった。ただ、施設に入ったことは友人には知られたくなかった。「帰る方向、来る方向が違うんじゃないか」と友人から尋ねられるのを恐れて、朝は誰よりも早く登校し、帰りも「今日は塾だから」などと嘘の口実を作って何とかしのいだ。
施設での生活も、時間の経過に従い苦しさが色濃くなった。一緒に暮らすのは、幼いころからずっとそこにいた子がほとんど。非行を繰り返す子を含む、これまで接したことのなかったタイプの子たちと、朝から晩までずっと一緒にいるという生活は、想像をはるかに超えた世界だった。静かに勉強するスペースも時間もなく、湯船には2日に一度しか入れなくて寒い思いをするなど、その施設独自の様々な制限もあり、精神的にも肉体的にもまいっていった。
最も苦しかったのは、大学進学への道を否定されたこと。施設に入ってすぐにアンケ―ト調査を受けた。様々な質問に答えたが、その中で大学進学への希望を率直に書いた。それを見た職員から一言、「大学に行くのは厳しいぞ」と忠告された。小さい時から、いずれは大学に進学するものだと思っていた。高校に進学したその頃は、中学校教諭になりたいという夢も持ち始めていた。それが打ち砕かれた瞬間だった。
「まず経済的に私立はダメ。行くとしたら国公立だけれど、それに合格させてあげられるだけの学習支援は、ここでは行えない。お金がないのだから、お前、自衛隊員になれ」。畳み込むように諭す職員の前で、うなだれるしかなかった。慣れない集団生活で疲弊していたこともあり、抵抗もできなかった。高校1年の夏を迎えるころに、夢も希望も失った。
転機が訪れたのは、それから間もなくのことだった。パートで勤務していた女性職員から、唐突に声を掛けられた。「うちへ来ない? 大学へ行きたいんでしょう?」
「顔は見たことはありましたが、自分からしてみると、知らないおばちゃん。俺を引き取るメリットはなんなんだ?といぶかしくも思いました」。しかし、よくよく話を聞いてみると、大学進学希望と書いた自分のアンケート用紙をたまたま見て、もったいないと思ってくれたのだと分かった。当時は精神的にまいっていて、施設にいる時間はずっと机にうつぶせていた。そうした姿も見られていたようだった。「あなた、このままではダメになるよ。私が勉強する環境を整えてあげる」と熱心に言ってくれる姿に、諦めていた夢を再び追う決心をした。
彼女の里子になるためには、制度的にも様々なハードルがあった。しかし、彼女が根気強く関係者を説得して回り、5カ月の努力の末、念願の許可が下りた。高校1年の冬のことだ。里子として彼女の家に行くと、約束通り環境が整えられていた。自分だけの勉強部屋。エアコンもついていた。心を砕いてバックアップしてくれているのが身に染みた。当時の成績は300人中190番前後。まずは、学校で1番になることを目標にした。集中できる場所を得たことを機に、成績は上昇し、目標を達成することができた。塾にも行かせてもらい、恩に報いたいという思いも更に強まった。
購入が必須だったノートPC。レポート提出に使う学生生活のパートナー
夢の奨学金 得たのはお金だけじゃなかった
「日本財団夢の奨学金」も彼女が里親仲間から情報をもらってきた。募集期間は2週間ほどと短かったが、何としても大学に行きたいという思いを願書にぶつけた。面接を経て結果が分かったのは、中京大学の入試の日。帰宅したら日本財団から封書が届いていた。緊張して開封すると、合格だった。「安堵感しかありませんでした。私立は何もかもが高額なので、正直、合格していなかったらどうなっていたかわかりません」
今も彼女の家で生活しているが、進学を機に、里親と里子という関係は終わりにした。下宿人となった。バイトもして毎月の家賃を払う代わりに、門限などのルールを撤廃。独立した大学生として扱われるようになり、彼女との関係も、以前と比べて更によくなった。生活費まで支給される奨学金のおかげで、体を害するほどの量のバイトは回避でき、しっかり栄養も取って勉強する時間もとれる毎日だ。
奨学生となって、感謝しているのはお金だけではない。他の奨学生、そして、ソーシャルワーカー・荒井和樹さんに刺激を受けた。
奨学生の仲間には、初めて会った時、正直面食らった。自分が養護施設出身だということや、施設に入るきっかけについて、なんのてらいもなく堂々と話す人が少なくなかった。しかも、めっぽう明るい。自分は、これまで何年にもわたり、境遇を周りに悟られないよう腐心してきた。それは偏見の目で見られたくなかったり、愉快なキャラで通っていた自分への評価を崩したくなかったりしたからだった。しかし、明るく話す彼らを見ていて吹っ切れた。自分の過去を正直に人に話すことができるようになった。奨学生としてインタビュー取材を受けることについても、即答でOKした。
荒井さんからは、生活面でのサポートにとどまらず、中学教諭という目標に向けてアドバイスをもらっている。子どもの社会課題に取り組み、幅広いネットワークを持つ荒井さん。中学校教諭になりたいという夢を話すと、経済的に困難な家庭の子に対して学習支援を行うNPOを紹介してくれた。「お金を稼ぐバイトだけでなく、将来の夢に役立つ経験を積むのも大切」。そのアドバイスに感激し、すぐにNPOに連絡、活動への参加を申し込んだ。理想の中学教諭になれるよう、大学4年間でできる努力は何でもするつもりだ。
この職業を目指すのは、中学校時代にお世話になった、ある先生との出会いがきっかけだ。中学3年の、まさに生活が暗転し始めた時期に、「おい、最近元気がないが、どうした」と気にかけてくれた。隠していたつもりだったが、毎日顔を合わせていた先生は、変化に気付いてくれていた。「日本では今、6人に1人の子どもが貧困と言われています。でも、僕がそうだったように、必死に隠している子も多い。それを発見し必要な支援につなげてあげられるのは、親以外で最も子どもの近くにいる学校の先生です。そういうことができる先生になりたいと思っています」
理想の中学教諭を目指して努力は続く
社会的養護の後輩、申請を予定している人へのメッセージ
「情報を集めることが大事。自分も何も知らなくて、職員が提示した道しかしかないと思い込んでしまっていた」
「夢を持つことが大事。そこに熱意があれば人生プランを他者に伝えられ、支援を受ける可能性を広げられる」