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採択奨学生の動き

第4期奨学生インタビュー第2回

自分で児童養護施設をつくりたい

4期生インタビュー2回目の相手は、聖学院大学の心理福祉学部心理福祉学科2年、藤本翔さん(20)です。「児童福祉施設の職員になりたい」と大学に進学しましたが、授業やアルバイトを機に視野が開け、より大きな挑戦に照準を合わせ始めています。その内容とは。

 

 

福祉を学ぶ藤本翔、20歳。夢は施設をつくること

 

「今年の4月に二十歳になり、初めて一人暮らしを始めました」

 

オンラインのインタビューで、まず聞かせてもらったのは一人暮らし開始のニュース。成人とみなされる「二十歳」は、飲酒が許されるなど誰にとっても変化の時だが、 “社会的養護の子”だった藤本さんには、それ以外に大きな出来事があった。「措置延長の解除」だ。

 

児童養護施設や里親の元で育った子は、原則的に18歳で福祉の対象ではなくなり、一人暮らしを始めるなど自立しなければない。ただし、措置延長といって、満18歳を超えて満20歳に達するまでの間、引き続き措置を行えることが児童福祉法で定められている。

 

藤本さんは、その措置延長によって18歳になってからも施設での暮らしを続けていた。そして、いよいよ20歳を迎えたことから暮らしていた施設から巣立ったというわけだ。

 

学ぶのは大学でも、アルバイトでも

 

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で休校になっていた大学は、5月に再開した。ただ授業はオンラインで、勉強は家で進める。「学んでいることは福祉全般です。例えば、児童心理などやっています」

 

引っ越しを機にアルバイトも変えた。以前はお寿司屋さんで働いていた。ホールの担当だったが、シフトにたくさん入れるように、いろいろな仕事を教えてもらった。最終的には、軍艦巻きの作業もやらせてもらっていた。

 

4月以降、新しく始めたのは児童デイサービスのアルバイトだ。学童保育の先生のような仕事で、対象は障害のある2~18歳の子どもたち。自閉症や発達障害のある子どもに向き合う。この児童デイサービスを運営する会社の経営者と知り合いで、彼から直接誘われ、二つ返事で引き受けた。

 

「すごくいいタイミングだったんです。福祉には、児童、障害、高齢という大きくいって3つの領域があるんですが、これまで、児童に関心があっただけでした。ところが、昨年受けた授業をきっかけに、障害の分野に強く惹かれていたんです。自分にとって、またとないアルバイトだと思いました」

 

5月からは、同じ会社が運営しているグループホームでの宿直のアルバイトも始めた。

 

「宿直は夜勤のスタッフとは違い、寝る時間があります。午後6時に出勤し、10時に利用者さんに就寝を促した後、自分も寝る。午前6時半に起きて、朝食を作り、8時半にあがります。週末はほぼすべて入れています」

 

福祉系のこれらの仕事は学業と直結しているだけでなく、金銭面でも価値が高い。「学ばせていただいているのにお金がもらえるなんて」。専門的な仕事ということもあるが、初めてお給料をもらった時、こんなに!?と驚くほどだったそうだ。

 

「施設の職員になる」から「施設をつくる」に

 

「夢は、施設をつくることです。その施設の特色は二つあります」

 

一つは、海外との提携。もう一つは、英語の公用化。前者は、教員や子どもが、海外の“姉妹”施設と交流できるようにして、刺激と学びを得られるようにする。交換留学のようなものもできたらいいと夢を膨らませる。

 

後者は、施設自体を英語村のようにするという構想だ。英語に親しみ、使いこなせるようになれば、海外の提携先との交流もより実り多いものになる。さらにもう一つ、明確な目的がある。

 

「子どもたちには、自信を持って施設を出て行ってほしいんです。英語は彼らの自信になると考えました。英語が身についていたら、就職をする時にもきっと役立ちます」

 

もともと夢は「児童養護施設の職員」だった。自分が育った施設でいじめやその連鎖を目の当たりにし、子どもたちが幸せに過ごせるようにしたいと思ったからだ。その夢が「施設をつくる」に変わったのは、現在アルバイトさせてもらっている会社の経営者から、こんな話を聞いたからだった。

 

「職員になったとしても、新人の話は聞いてもらえない。自分の思い描いた運営ができるのはいつになるかわからない。自分で起業したら、最初から自分でできる」

 

この経営者も20代で会社を経営していた。身近にロールモデルがいることで、「自分にもできるのでは」「やってみたい」という思いが強くなった。

 

 

両親への思慕は小4で消えた

 

社会的養護の子になった経緯は、「全く覚えていない」。幼い頃、父親に会いたくて仕方がない日々を過ごしたが、小学4年生で実際に父親に会った時の出来事がきっかけで、家族にも生い立ちにも興味を失ったという。

 

自分が施設に入った諸事情を知ったのは高校生の頃で、奨学金の申請に記入が必要となったからだった。その時に得た話によると、2歳の時、1歳だった弟と一緒に施設に入った。当時、父親は直前に母親と離婚していて、そばには交際相手の女性がいた。4人で廃車を寝床に路上生活をしていた時、一時保護され、弟は乳児院、自分は一時保護所を経て施設に入った。弟も後に自分がいる施設に入ってきた。

 

一方、父親に対して無関心になった瞬間のことはよく覚えている。定期的に児童相談所の職員が、子どもたちの話を聞きに来ていて、弟と二人、「お父さん、お母さんに会いたい」としきりに訴えていた。一度も面会できていなかったからだ。

 

小学4年生になった時、突然、父親が面会に来てくれることになったと知らされた。「嬉しくて、嬉しくて、緊張して話せないほどだった」というその日。勇気を出して、父親に2つだけ質問した。まず、「お母さんはどうしたの」。父親は、「お母さんは連絡がつかないんだよ」と答えた。ここで、両親は離婚していると初めて知った。

 

そして、次の質問。「なんで今まで来てくれなかったの」。父親の答えは「引っ越ししたんだよ」の一言だった。その言葉にショックを受けた。

 

「子どもが可愛いんだったら、引っ越しても、連絡先を施設に知らせて、会いに来るはずですよね。父親を想っていた自分がばかばかしくなりました。もう、いいや、と。両親に対して何も感じなくなりました。まるで糸がプチっと切れたかのようでした」

 

施設生活も、必ずしも平穏なものではなかった。小学校低学年の時、歳が上の子たちから暴力を受けていた。怖くてすぐには職員に言えなかったがある日、打ち明けた。ところが、それが逆効果。職員から注意を受けたいじめっ子たちから、さらにひどい仕打ちをされた。

 

「大人は無力だ。大人には頼らずに、自分がそういうのをなくしていこう、と強く思いました」。もともと子どもが好き。彼らを救える施設の職員になりたいと、進路に向けて気持ちは固まった。

 

いじめには連鎖もあった。いじめた世代がいなくなった時、いじめられた世代が下の歳の子に暴力を振るうようになった。幸い、中学に上がった頃、暴力をふるう側に回っていた子どもたちが次々と施設を離れることになり、雰囲気が好転した。

 

高校生になった頃には、それまで不信感を抱いていた職員たちに対しても、わだかまりが解けた。職員の側からの率直な考えや職員になった経緯などを聞くことができ、職員の仕事を理解できるようになった。

 

夢の実現に向けて課題だったのはお金だった。

 

「高校3年生までサッカー部だったので、学費を準備するためにアルバイトを始めたのが遅かったんです。同じ施設で他に進学しようとしていた2人は、高校1年生からやっていましたから、進学準備は焦りからのスタートでした」

 

そこで、指定校推薦に焦点を絞り、合格できたら残りの日々で集中して稼ごうと決めた。「とにかく行けるところに合格しよう」と努力した結果、10月に合格が出た。そこから、お寿司屋さんで必死に働いた。この3月までお世話になっていたお寿司屋さんだ。

 

しかし、入学金や学費、その後の生活費などを考えると、奨学金が必要だった。そのために、複数の奨学生制度に応募した。ところが、軒並み不合格。心細さの中で、最後に一つ残った奨学金に合格した。それが夢の奨学金だった。

 

「唯一合格できたのが、一番大きな(手厚い)、夢の奨学金だったんですよ」と、苦笑いする。

 

ただ、「受かるプロセスは夏から始まっていた」と振り返る。高校3年生の夏、夢の奨学金の説明会が開かれると聞いて、出かけて行った。東京都・赤坂の日本財団ビルが会場だった。路線をよく間違えるなど乗り物が苦手なため、余裕を持って出発したが、不安的中、乗り間違ってしまった。「遅れてすみません!」と汗だくで走り込むと、定刻ギリギリだった。

 

意外なことに、「来てくれてよかった!暑いのに走ってきてくれてありがとう」と大歓迎された。会場の会議室で、見ると参加者は自分一人。事務局の職員2人は、ゲストとして呼んでいた採択奨学生1人と共に、「誰も来なかったらどうしよう」と気を揉みながら待っていたのだという。

 

「個人面談のようになり、アドバイスをたくさん持ち帰ることができました。二次の面接でも、職員さんから『あの時の!』と覚えていてもらっていました。申請を予定している人には、説明会には絶対行った方がいいよ、と伝えたいです」

 

(※事務局注:今後の説明会の実施については未定です)

 

 

奨学金で得た余裕が挑戦できる気持ちを生んだ

 

夢の奨学金を得て、変わったことがある。

 

「それまでは、施設の子であることを理由に諦めていたことが多かったんです。奨学金をもらえることになって、今まで我慢してきたこと、心からやってみたいと思うことに挑戦していこう。そういう気持ちがわいてきました。経済的な余裕と精神的な余裕の両方が出てきたからだと思います」

 

挑戦の一環で昨年、海外に行った。カナダへの短期語学留学だ。現地の雰囲気や、出会った人たちの人柄に大きな刺激を受け、自分が作りたい施設を「英語村にする」という発想にもつながった。

 

施設をつくるという夢に向かって、学業でもアルバイトでも、多くを吸収し学ぶ毎日。しかし、実はもう一つ、夢がある。「幸せな家庭を作ること」だ。

 

「一番の大きな夢です。そのためだけの貯金を、中学生の時に少しずつ始めたんです。このお金は他の何のためにも手を付けない、と決めて」

 

当時の藤本少年が立てた誓いは今も継続中。2つの夢を実現できる日を目指し、ひたすら前を向いて進んでいる。

 

 

社会的養護の後輩、申請を予定している人へのメッセージ

 

「とりあえず動いてみる。自分の考えだけでやめるのはもったいない。自分から求めていくと、情報も入ってくる」

 

「奨学金は、夢がない人はもらうのが困難となっているのが現実だと思う。だからこそ、今から自分の夢を膨らませてほしい。どんなに小さくても、どんなに大きくても構わないです。大事なのはそれに対してどれだけ向き合えているか、行動できているかだと思います。夢という言葉のイメージは大きいですが、たとえ小さく見えるものでも堂々と言えたらそれは夢。信頼できる職員や友達に話したり、ノートに気持ちを書いてみたりして言語化する練習をするのもおすすめです」