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「日本財団夢の奨学金」第3回交流会・勉強会講義録

保証人問題など、法的な問題あれこれ

テーマ:「保証人問題など、法的な問題あれこれ」

講師:岩城正光氏(弁護士、前名古屋市副市長)

日時:2016年6月25日(土)

 

20160625.第3回勉強会 集合

 

【サマリー】

<保証人>

1.絶対、保証人にはなってはいけない。

主債務者が返済できない場合、保証人が返済しなければいけない責任がある。

 

2.保証には「通常保証」と「連帯保証」がある。

現実の社会においては、「連帯保証」が利用されている。「通常保証」は、現実にはほとんど利用されない。

 

3.保証契約は契約書に直筆で署名しなければ効力は生じない。

メールもLINEも効力はないが、メールに添付されている契約書に署名して送信した場合は契約書になってしまうので注意が必要。

 

<通常保証>

1.民法で最初に出てくる保証である。

催告の抗弁権、検索の抗弁権、分別の利益がある。

 

2.催告の抗弁権とは

請求についての抗弁権という意味である。主債務者に請求する前に保証人に請求した場合は、請求の順番を間違えていないかと債権者に主張できる。

 

3.検索の抗弁権とは

強制執行(財産の調査)の順番について、債権者に主張できる。主債務者に強制執行してそれが空振りで終わった(財産がなかった)時、初めて保証人へ強制執行するという順番になる。

 

4.分別の利益とは

保証人が複数いる場合は、保証責任を人数で分配すること。複数の保証人がいることを共同保証といい、保証人同士は顔見知りでなくてもよい。

 

<連帯保証>

1.催告の抗弁権、検索の抗弁権、分別の利益はありません。

連帯という言葉がついているように保証ではあるが債権者との関係においては連帯債務と同じ意味になる。つまり、連帯保証人でも主債務者と同じ責任を負うことになり主債務者となる。

 

<根保証>

1.普通の保証とは違い、債権者と主債務者との間に継続的な貸し借りがあった場合、継続的な貸し借り全て(全額)を根こそぎ保証するということ。

2.極度額と契約期間を定めなければならない。

 

<過払い>

1.利息制限法に超過した利息分について返済は不要である。

もしも、返済しすぎていた場合は後で取戻しができる。

 

<岩城弁護士の人生論>

「全てに意味がある」というのが私の人生論である。どんな災いがきたとしても、そこには自分にとっての意味が必ずあるので、その意味を見つけようという意志があるかないかによって人生の充実度は変わってくる。

自分の人生を意味で充足させることが大切であり、一瞬一瞬毎日が意味ある人生だったと思えればそれはとても幸せなことである。これは、「ロゴセラピー」といい、「夜と霧」を書いたオーストリアのヴィクトール・フランクルの発想である。

 

20160625.第3回勉強会

 

【講義録】

保証人のことについて簡単にお話をさせていただきます。結論からいうと絶対に保証人になってはいけないということです。保証人というのは主債務者が返済できない場合、自分が返済しなければいけない責任がでてきます。その為、保証人になってはいけないというのが原則ですが、生きているうちにどうしてもならざる負えない立場になることもあります。特に親族や家族、友達など特に親しい人から「お金を借りるためにどうしても保証人が必要だから保証人になってもらえないか」と頼まれると、ついつい保証人になってしまうことがあります。

 

平成17年に民法が改正されて、保証人の責任が限定されることになりました。あまりにも保証人の責任が重くなりすぎてしまい、主債務者が返済できない場合には貸金業者が保証人を追及してきます。それらの問題に伴い、金貸業に対して規制を加えるべきだということになり、民法が改正されました。

 

また、「過払い」といって利息制限法に超過した利息分について返済は不要であり、もしも払いすぎていた場合は後で取戻しができるということになりました。(最高裁の判決) これにより、利息制限法に違反してお金を貸していた金貸業者などは倒産しましたが、それがいいことなのかどうかというのは経済全体から見ると難しい問題があります。

 

銀行がお金を貸してくれないから、サラ金業者からお金を借りざるを得ないという需要がありました。銀行は担保や土地、財産、保証人がいるかなどチェックが厳しすぎてお金を貸してくれないので貸金業者に頼ることになります。そして、どうしてもお金が足りないので金利がある程度高くても短い期間なら返せると思い、サラ金や貸金業者からお金を借りすぎてしまい、四苦八苦しているうちに借金が膨らんでしまいます。

 

保証には「通常保証」と「連帯保証」があり、「通常保証」には催告の抗弁権と検索の抗弁権、分別の利益がありますが「連帯保証」にはありません。

 

「通常保証」とは民法で最初に出てくる保証の規定であり、「通常保証」という保証契約の基本概念の条文をおいた上で「連帯保証」という概念を作っています。しかし、企業の間や一般社会の間では「通常保証」は全然利用されていません。お金を貸す以上は損したくないので、ほとんどの契約書は「連帯保証」になっていると思います。はじめから善意でお金を貸して保証人の責任はどうでもいいという人はいません。

 

例えば、Aさん(主債務者)がXさん(債権者)からお金を借りました。その時に、YさんとZさんが連帯保証人になったとします。この保証人になる契約を保証契約といいます。誰と誰の間で保証契約が結ばれるかというと、Aさん(主債務者)は関係なくて、Xさん(債権者)とYさん(連帯保証人)、Xさん(債権者)とZさん(連帯保証人)という契約になります。Aさん(主債務者)は、この契約を締結できるように原因を作っただけの人ということになります。

 

催告とは督促や請求という意味で、催告の抗弁権とは請求についての抗弁権という意味です。債権者に対して請求先の順番が違うと主張をすることができます。主債務者であるAさんに対して、YさんとZさんは保証人のため従たる債務になります。従たる債務は、第2次責任となります。第1次責任はAさん(主債務者)にあるので、まずはAさんに請求して返済されない場合、YさんとZさん(保証人)という第2次的な従たる債務者に対して請求をしてくださいという請求の順番の抗弁権です。その請求については、保証人は無視することができます。

 

検索の抗弁権とは、強制執行(財産の調査)の順番について主張できるということです。

例えば、Aさん(主債務者)に請求したが返済されなかったので、いきなりYさん(保証人)の財産を差し押さえた場合、この差し押さえは違法だと言うことができます。強制執行にも順番があり、Aさん(主債務者)に強制執行してそれが空振りで終わった(財産がなかった)時に保証人へ強制執行するという順番になります。催告の抗弁権同様、強制執行の順番も第2次的に、2番目の強制執行になります。

 

分別の利益とは、保証人が複数いる場合に保証責任を人数で分配することです。複数の保証人がいることを共同保証といい、保証人同士は顔見知りでなくてもいいです。例えば、Aさん(主債務者)の100万円の借金に対してYさんとZさんが保証人になっているときは、分別の利益でそれぞれ50万円ずつの保証責任しかありません。

 

「連帯保証」とは、連帯という言葉がついているように保証ではあるが債権者との関係においては連帯債務と同じ意味になります。つまり、連帯保証人であるYさんもZさんも、Aさん(主債務者)と同じ連帯債務の責任を負うことになり主債務者となります。「連帯保証」には、催告の抗弁権、検索の抗弁権、分別の利益はありません。連帯保証人が2人いても借金が分配されず、100万円ずつ責任を負うことになります。Xさん(債権者)は、連帯保証人であるYさんとZさんに対して100万円を全額請求することができます。その場合、YさんもZさんも全額返済しなければいけません。

 

では、保証という意味は何かというと、Yさん(連帯保証人)がXさん(債権者)に100万円を返済した場合、YさんはAさん(主債務者)に「あなたの借金を代わりに返済したからお金を返してほしい」と請求(求償)できますということです。

 

「連帯債務」と「連帯保証」の違いですが、自分も利益を得ている場合が「連帯債務」です。例えば、家族で車を買いました。自分ひとりでは車を購入できないので父と一緒にオートローンを組み、連帯債務となっている場合は、自分も父も同等の主債務者になります。どちらも同じ立場になります。これに対して、「連帯保証」というのは同じ立場ではなく、後で求償されますということです。

 

また、保証契約は契約書に直筆で署名をしなければ連帯保証人の効力は生じません。だから、絶対に保証契約には署名してはいけません。元々は口頭の契約でもよかったが、テープレコーダなどの録音を証拠にして保証人にされることがあったので、平成17年に民法が改正されました。メールやLINEも効力はありません。ただ、メールに添付されている契約書に署名して送信した場合は契約書になってしまうので注意してください。

 

それから、根保証というのがあります。根保証とは普通の保証とは違い、債権者と主債務者との間に継続的な貸し借りがあった場合、継続的な貸し借り全て(全額)を根こそぎ保証しますということです。例えば、Aさん(主債務者)がXさん(債権者)に100万円を借りました。その時に、YさんとZさんが連帯保証人になりました。後日、AさんがXさんに50万円を返済しました。そうすると、YさんとZさんの責任は返済されているので50万円になります。実際は、分別の利益があれば25万円ずつになるが、「連帯保証」の場合は分別の利益がないのでYさんとZさんはAさんの残債務にだけ責任を負います。Aさんがきちんと返済していけば保証人の責任は軽くなっていきます。ところが、Aさんが50万円を返済したので、XさんはAさんにさらに30万円を貸しました。そうすると、XさんはAさんに80万円分の債権を持っていることになります。YさんとZさんは、最初の100万円の契約についてだけ保証しているので、その後AさんがXさんから30万円を借りても、その30万円については保証人になっていません。返済後に新たに借りた場合は、保証人の責任は及びません。

 

ところが、根保証というのはAさんの残債務80万円について、YさんとZさんは保証責任を負うということです。なぜこういうことが起こるのかというと、AさんとXさんが継続的な取引をしているときは、その度ごとに契約書を作っていては手間がかかるので、継続的な取引については包括的に全ての残債務について責任を負うことになります。

 

ただし、根保証には2つの要件があります。1つは極度額を定めなければいけません。Xさん(債権者)とAさん(主債務者)との継続契約について全責任を負いますという「包括根保証」は認められていません。XさんとAさんとの間に100万円の貸し借りがあり、極度額が300万円だった場合、YさんとZさんは100万円の保証人になったつもりでいるかもしれないが、根保証契約で極度額300万円と書いてあれば300万円まで責任を負うことになります。2つ目は、期間を定めることです。XさんとAさんとの継続的取引の期間を定めなければいけません。もしも、契約で期間を定めなかった場合、民法では「契約日から3年経過した時点で元本を確定する」となっています。3年経ったときの残債務で確定されるので、それ以降の残債務について責任はありません。

 

また、契約期間を定める場合は5年以内でなければならない。もしも、6年という契約があった場合は契約期間が無効になり期間を定めていないと同じことになるので、3年で確定されます。根保証というのも、とても怖い契約なので注意しなければいけません。

 

では、事例で考えてみましょう。XさんがAさんにお金を貸すという貸し金契約です。300万円の連帯保証になったが契約書に極度額が1,000万円と書いてある場合、1,000万円まで責任を負いますという契約になっています。

 

XさんがAさんにアパートを貸すという賃貸借契約です。Aさんはその家に住んでいるが、YさんとZさんが連帯保証人になりました。ところが、Aさんが家賃を支払えなくなり滞納した場合、XさんはYさんとZさんに滞納家賃を請求できます。通常、アパートの契約は2年契約で、借地借家契約法に基づいて更新されます。更新後の契約についても、YさんとZさんも責任を負わなければいけません。建物賃貸借契約は2年という契約期間があったとしても、継続的な契約なので2年を超えて更新されることを予想されていると考えられています。その為、正当な理由がなければXさんからAさんに「2年契約だから退去してくれ」と言うことはできません。更新されることが前提の契約なので、契約が更新された後も連帯保証人の責任は継続されます。

 

では、AさんはXさんに借りた建物に25年住んでいる場合、YさんとZさんはこれから先もずっと連帯保証人の責任を負わなければいけないのでしょうか。

このように、長期の年月が経ってAさんの経済状況が変化した場合、YさんとZさんには「解約告知権」が認められています。これは、信義則に基づいて連帯保証債務を解約するという権利です。Aさんの経済状況や変化に応じて認められるので、一概に何年経てば解約告知権があるとは解釈されていません。

 

もし、連帯保証人を解約されたらAさんはどうなりますか?解約された場合、XさんはAさんに対して新しい連帯保証人を見つけてほしいと言えます。新しい連帯保証人が見つけられなくても、家賃の滞納がない限りXさんはAさんに契約解除はできません。

 

では、AさんがXさんに借りたアパートで自殺した場合、YさんとZさん(連帯保証人)に責任はありますか?これは損害の範囲の問題です。保証人としてどこまで責任を負わなければいけないかという問題です。借りたアパートには、借主としての管理責任があるのに、そこで自殺するということは次の借り手が見つからなくなってしまいます。不動産屋は建物についての説明責任がり、自殺があった場合は新しい借主に説明しなければいけません。もし説明がなかった場合は新しい借主は契約解除でき、不動産屋の責任も追及できます。ただ、Aさんの次の借主には説明責任はあるが、その次の借主には自殺があったことを説明する責任はありません。前の借主の状況をきちんと説明すれば、2つ前の借主のことに関しては伝える義務はありません。そういう事故物件は家賃が異常に安い場合があります。

 

2階の1号室でAさんが自殺した場合、隣の住人や他の住人も自殺したアパートに住みたくないと思います。その場合、建物全部についての損害をYさんとZさんに請求ができる可能性があります。これを相当因果関係といい、Aさんの自殺に伴う相当因果関係の範囲内について、YさんZさんは連帯保証人として損害賠償責任を負わなければいけません。

 

実際にあった例では、最高裁はAさんの1号室だけは連帯保証人が全責任を負い、その他の部屋の借主がいないのは相当因果関係とはいわないと判断をしました。しかし、その責任をどこまで(期間)負うのかということについてはまだ最高裁の判例はありません。

 

もし、保証人がいなくて部屋で亡くなった場合は相続人に責任を請求することができます。相続人が責任を負いたくないときは「相続放棄」すれば拒否できます。「相続放棄」は亡くなったことを知ったときから3ヶ月以内に家庭裁判所に書面として提出しなければいけません。連帯保証人が見つからず連帯保証会社にお金を払って連帯保証人になってもらった場合は保証会社に責任がいきますが、連帯保証会社は相続人に請求をすると思います。相続人がいない場合は、連帯保証会社が責任を負います。

 

相続は血の繋がりになるので、自動的に自分の親が相続人になっています。これは、人格承継説といって、法人格がそのまま継承されるということです。離婚して戸籍を抜いている場合でも、夫婦は他人なので契約関係になるが、親子は契約ではなく血の繋がりなので変わりません。親が生きている間は推定相続人となり、相続関係を切ることはできません。義理の親の場合は、相続は発生しません。また、養子縁組は血の繋がりはないけど法律で血の繋がりを認めたことになります。

 

自分の親を知るのはすごく大事なことです。出自を知る権利といって、自分のDNAは親から来ているので、どんな親でも親を知っておくことが大事である。ただ、自分が受け止められるだけの土俵がないといけません。

 

では、AさんがXさんに借りた建物の契約が転貸借禁止になっていたのに、Aさんは勝手にBさんに貸しました。そこでBさんが自殺した場合も相当因果関係の範囲内に入り、連帯保証人であるYさんとZさんも責任を負わなければいけないでしょうか?

 

Aさんが契約違反をすると思わなかったというのは主観的事情です。契約を守らないようなAさんをあなたは信じたということになるので、相当因果関係の範囲内に入り連帯保証人の責任が発生します。

 

AさんがXさんに借りた建物で亜鉛メッキの工場をしました。その後、Aさんは亜鉛メッキ工場をやめたが化学薬品を大量に使っていたため土壌汚染が発生した場合、その責任を連帯保証人であるYさんとZさんは負う必要があるでしょうか?

 

YさんとZさんは連帯保証人の責任を負う必要があります。亜鉛メッキ工場をやるということがわかっていれば、当然土壌汚染の危険についても予期できる事柄だからという理由です。

 

これから色んな問題が出て困ったときは、まず弁護士に相談したほうがいいです。その問題をマイナス要素として捉えてはいけません。

 

私の人生論は「全てに意味がある」です。これは客観的に意味があるかではなく、自分にとって意味があると考えるわけです。どんな災いがきたとしても、そこには必ず自分にとって意味があります。その意味は何かということを自分の責任で求めていかなければいけません。その意味を求めない姿勢の人間は、いつまで経っても感情的な問題が消化できないままになってしまいます。意志があるかないかによって人生の充実度は変わってきます。自分の人生を幸せかどうかではなく、意味で充足させることが大切です。一瞬一瞬毎日が意味ある人生だったと思えれば、とても幸せなことです。これは、「ロゴセラピー」といい、「夜と霧」を書いたオーストリアのヴィクトール・フランクルの発想です。

 

オーストリアにはフロイト、アドラー、フランクルという三大精神科医がいました。フロイトは、人間は性欲でコントロールされていて楽しいほうに行くという発想。アドラーは、権力志向で自己実現を強調する。自分は他の人よりも優越的地位に立ち、権力を求めていくという発想。フランクルは、意味を求めていくことが大切だという発想。「自分の人生には意味がある」というのは、どういう捕らえ方をするかと言うと、「自分の人生が自分に問いかけている」という発想をする。「自分はどう生きるのだ」というところに意味を見つけようという意志を持たなければいけません。幼いときや大人になってからの不幸な体験には、全部意味があるというのがヴィクトール・フランクルの考え方です。